昭和42年1月21日 朝の御理解
不平も不足も、不思議に自分の心の、清まることによって、その、跡形もない、ように、自分の心の中から不平不足が消える、だけではなくて、不安、心配、すらも自分が極まることによって、なくなっていくもんです、そういう意味で、例えば朝の御祈念なんかは、一番、言うなら、効果的だと思いますね、おまつなりとも奏上さしてもらう、本当に心行くまでの御祈念をさしてもらい、大祓いを心の底から、奏上さして頂いておりますと、確かに心が清まってまいります、朝の、言うなら、すがすがしい、言わば、朝のしじまを破って、声高らかに、いわゆるどっこんせいじょう自分の心が清まって行くことの、お勤めをさして頂いておりますと、確かに、不平不足、が消えていきます、だけではありません、不安も、心配も、段々薄らいでまいりまして、そして、清まって行くにしたがって、その心配も不安もなくなります、なるほど、おかげを頂くはずだとこう思います、だから朝の御祈念というのは、そういうような特別な、言うなら特効とでも申しましょうかね、特別ないわゆる効目があるわけなんです、ね、それを、朝の御祈念をただ、あ~、しるしい、眠たい、というような、ことではですから、その効果は、言うなら上げられないことになります、ね、それはなるほど、修行としては、神様は受けて下さいますでしょうけれど、ね、信心の、お~、いよいよな願いというのが、私共の清まるということになるのでございますから、ね、その清まるの、一つの方法としてです、朝のお勤めなどを心行くまで、さして頂いておりますと、心が、いわゆる清まって行く、清まってくるのにしたがって、私共の不平不足がなくなってくる、ですからその、お~、いくら御祈念をさして頂いても、お~、不平不足があったり、心配が何時までもあったりするなら、あなたが本気で清まろうとしていないことを、それは、物語っておるのでございますよ、ね、もう本気で清まらして下さいと、本気で、有り難うならして下さいと、というような願いを、を、持っていないことになりますよ、ね、ここに来るまでは不安であった、心配であった、また、誰が彼が、本当に不平不足、「まちっとこうあってくれると良いけれども」「子供がこうで」「主人がこうで」と、という、「家内が」と言う風にです、不平不足を確かに、感じることはもう沢山あります、けれども、自分が本気で、段々こう清まってまいりますとです、清まってくるのにしたがって、「家内でもなからなければ、主人でもない」と、いう不平不足の、うんなら、その元であるところの、不平不足というものはです、いわゆる、影形もなくなってくるって、ね、そういう私は清まり方でなからなければ、本当な清まって行きよるというのじゃない、自分の心が清まったら、おかげが受けられますですね、自分の心が清まったら、心配がなくなるですね、不安がなくなるですよ、ですから、そういう心におかげの、頂けないはずがないです。
昨日、菊栄会でございましたから、え~、福岡に、杉山さんも一緒に来とりましたが、先日から、親教会からあの、御心境を、こんな大きな、あちらの古いやつをお下げ頂いとりました、でそれで、それを、また研ぎに、研ぎにって言うのが、あの~、磨きに、やったんです、一遍その、お~、鍍金をしてありますとを取って、そして新たにいわゆる鍍金をし直そうというのです、だから(?)を磨かなければ、鍍金が出来ないのです、まあ実に、まあ商売じゃあるなと難儀ごとにでけてきたと思うんですけども、ところがどっこいその、ず~っとその黒い点々がついてるんです、あるんですね、それで、「これはまあ一応、作り直させましょう、新たに新しく作り直させましょう」とこう言うわけなんです、いや私も考えたんですねえ、御心境ですから、せっかく親教会から下げて頂いたのに、親先生も下げて下さってなんか、こう有り難いように、奥様も、お~、「これからのこと御心境、もう傷つかなかったもので、そういう風に使うてもらえば」という風に、そういうような喜びを私自身感じたもんですから、こりゃ親先生方の、その~、お気持ちを頂いてから、この御心境をその、お~、拝ませて頂く対象である、お社の中に納めさしてもらう、御心境にさして頂こうと思うておったところがどっこい、その、おおとつがあるんですね、磨いたところが、だもんですからその、おおとつの所の部分が、その、お~、黒かったり、ちょっとこう傷があるように、っとこう点々が、沢山ついてるんです、これが神様の(心or 所)にこんなおおとつがあったり、清めなっ、あの~、黒い点があったりするはずはないのだから、考えましてね、これ作り変えてくると言うけども、まあせっかくの親教会の、思いというものを、無にしてまですまんのだと、「まあそりゃぁあんたまあ新しく作ってから、(?)頂いとります」と言やぁ良いじゃないですか」とこう、言うんですけれども、それじゃ私の気持ちがすまん、それで私考えたんですね、私の方の心に、ね、私共の心に、いや私の心に、このおおとつがあるんだ、黒い影があるんだという風に、丁度言うなら、あのお月様の中に、黒点があるでしょ、あれのひどいやつです言うなら、まあお月様に、鏡のように輝いておるんですけども、中に黒点がこう、(?)でから見えるわけなんです、ね、ですからこれは神様の心ではなくて、私共氏子の心の中に、そのお点があるんだ、黒点があるのだという風に、頂かせてもろうて、これを一つの生きた教えとして、え~、これを回避させてもらう時に中から八波の御紋章がこう入り出してくる、びかびかその光っておる、その中に黒点があることを、私共の心として頂くことに、「(?)から、「いやぁもう私は作る」ということはもう止めてこれを頂くことにしましょう」と言うて、ま言うたんですけれどもね。
私共の、心の中の、いわゆる清まっ、清まらして頂こうとさして頂きながらまだ不安もあり、心配があるとするなら、まだまだ本当の清まりが出けてないということを悟らなければいけません、清まるということはそんなに、素晴らしい、言わば、功徳と言うかね、まっあるわけなんです、思うですね。
最近、まあ、選挙のことで、随分やかましく言ってますよね、政界でも、あの黒い傷とかなんとかというような、言葉を使って、政界のお~、お~、だは、堕落と申しましょうか、腐敗と言うか、そういうようなものが、あそのやかましく言われております、ね、また評語なんかの、なかなかの素晴らしいその人の心を捕らえるような、評語が毎日、載って来よります、ね、けれども私はその、お~、政治家の一人一人が、に、その、清まってほしい、と言うておる、言うなら、あ~、有権者の、一人一人が私は、清まることが、先決だと思うんです、自分達が、心が、黒いから、情実とか、ね、様々な、選挙違反に出てくるような、あ~、けわらしいような事柄によって、結局、選挙した人達が、またそういう、黒い霧的な、結果になってしまうのじゃないかと、私共の心が、清まってないから、相手を見る目が、出来ないのだと、ないのだと、ことの黒い汚い心で、眺めておるから本当の事を分かるはずがない、ね、そして、言わば、見かけだけ、奇麗にしておればもうそれが、良いように飛びついていくというようなです、結局私は、有権者の方が、私は悪いのだとこういう風に感じる、そういう頂き方が私は信心だと思うんです、ね。
世界の真の平和よりまず自分の心の平和から、ね、その、その心が世界平和の、大みかげに繋がるものであるということをです、私は思う時に、まず、立派な良い政治が出来るためにはまず、国民の一人一人がです、そこの自覚に立たなければ、本当のことじゃないのじゃないかと、いわゆるそういうような、念から、私は評語でも作ったら、言うなら、あ~また変った評語が出来るのじゃないかなというようなことを考えるんです、ね、(?)前に、まずこっち自体がです、自分の心の上に、清まりを願っていかなもんじゃなからなければ、本当な選挙は出けないという風に私は思うんです、ね。
私共自体に、光があろうとも思われません、ね、こちらの心が、真っ暗であり、こちらの心が、言わば、みか月型であったり、半月型であったりするところに、そこに射すところの光もその程度のものですから、ね、私共の心の方を、まず、ね、円満な、真ん丸い、十五夜のお月様のような、心にまずこっちがなることなんだ、それが欠けておるのだ、ね、私共の、その、お~、円満な心というような、え~、心がです、って言うてそれに光があるとは思われない、言うなら、お天道様の、お照らしを受けて、言わば光のない、お月様が光輝いてくる、ね、太陽そのものに光があるのであって、神様そのものに光があっ、あるのであって、その光を受ける月には、実を言うたらなんの光もないのだけれども、月が真ん丸く出ておれば、真ん丸い、言わば「(ひろう?)も欺く」というような、光になってくるんです、私共の心自体に光があるとは思われません、けれども私共の心が、円満に、真ん丸うなって、しかもそれが磨き清まれておるところにです、それこそ「神様を欺く」とでも申しましょうか、ね、「(ひろう?)を欺く」という言葉を持ってするならばです、本当に人でありながら人ではない、神様と同じような光を放つことが、出来るような私共にもなることが出来るんだということ、円満な心と、ね、本気で清まるということはそういうことなんだ、ね。
私共がこうやって一生懸命朝の御祈念にでもお参りさして頂いて信心修行さして頂いておることは、なるほどこの事ば願わんならん、この事が成就することのために、一つ本気で朝参りでもさしてもらおうと、いうその、願いは誰でも同じですけれども、ならその、願いを成就して頂くためには、まず私共が清まらなければならないということを、思わなければいけません、そして、本気で私共が清まらさして頂くところの信心、そういう意味で、朝の御祈念などをです、ね、あまつのりとが奏上される、心ゆくまで御祈念がさしてもらえれる、本当に心の底から大祓いを奏上させて頂きよりますと、いつの間にか自分の心が、本当に清まってくる、自分の心が円満になってくる、そして、思うておった心配がなくなってくる、不平不足に思うておったのが、不平不足のだんじゃない、有り難い心に変れれてくる、清まるということはそういう功徳があるのだと、御祈念をさして頂いたけれど、一生懸命大祓いをあげっ、上げたけれど、まだ不安があるの、まだあちらにこちらに、不足を感じておるとするならば、あなたの御祈念は清まるための御祈念じゃなかったということになる、なんなら半分んの御祈念であったということになる、ね、私は御祈念とか、お勤めとかというのはね、そういうような、私は功徳があると思うです、ね、ですから、不思議に、ここにお話しを頂いておる時に心配はないのだけれど、なら一歩外に出るともうその事が心配になるというのは、ここへでは何とはなしに清められて、お話を聞きながら、お話によって清められておるから、しやっ、心配や不安がなくなるのです、そういう心におかげがあるのです、ね、そういう心に、神様の、言わば、お天道様の光が、しゃんさんと、照りつけられる、それが照り返される、いわゆるような光になってくるのです、ね、ですから本気で清まらせて頂こうということをです、ね、なら、なら、御祈念だけで清まるということじゃありません、ね、様々な問題を持って、清まらして頂く。
日田の堀尾先生が、まだお若い頃に、あちらの御信者さんが、え~、信者さんの中に、選挙違反で、大刑を受けなければならないということになった、ね、(?)の境域に行かなければならなくなったんです、その時にその方が、お届け出て来た時に、「○○さん」って、ね、「あんたはね、警察に清まりに行くのぞ」と、「清まりに行くとばい」と言うてその、おっしゃったということでございます、ね、その一言がもうとにかく響いた、そこで、そのお~、監獄の中にあってもです、もう清まることに一生懸命勤められた、その、苦しいとか、あ~困ったというその問題を、清まることに、一生懸命された、ですから、例えば、ちょっと忘れましたけども、一年なら一年の、お~、刑を受けなければならんのが、( ? )して、まぁすぐ、半年なら半年出てこられたというようなおかげ話しを聞いたことがあるんですけれどです、ね、その事によって清まるのです、難儀を感じることによってです、( ? )を被っておるようなもんなんだ、ね、そのその事によって分かろうとさして頂くのだ、ね、ですからその事によって、私共、(?)も清まらせて頂こうという願いを持っておけば、日常生活の中に清まらして頂こうと、するとですね、例えば自分の不平不足が起こった時にはです、まず清めることに一生懸命なりなさい、あれじゃないこちらが、こちらが清まる、清まり方が足らんから不平不足が出ておるんだと思うてです、本気で清まることに勤めさして頂いたらです、相手に対する不平不足がなくなってくるです、ね、それを私共は、一番肝心な、やはり朝の御祈念、と思いますですね、一生懸命に、神様の方が心を打ち向けてくる、そして、それは、なるほど、お勤めと言うと一つのけいっ、形式、になるんですけれども、それが心の底からのお勤め、いわゆる心の底からの御祈念、一生懸命本当に、あの大祓い奏上でもやっとってごらんなさい、本当に心が清まって行くから、ね、もう本当に神様と一つになったような心持ちが生まれてくるから、あれは、自分の心が清まっておるから、清らかな神様と一つになれれるのですよ、ね、神様はお水である、こちらは油であるというような心であるから一つになれんのですよ、ところが一生懸命御祈念をさして頂いて、一生懸命大祓いでも奏上さしてもらっておる時にはです、自分の方が清まってくるから、神様と一体のような、言わば、一体感と言うですか、いわゆるそういう感じが心の中に強うなってきて、そして有り難い神様との交流がいよいよ始まってくるのですよ、「ほぉ~こういう清らかな、こういう有り難い気持ちで、何時もありたいな」と「四六時中こういう風な気持ちでありたいな」というような願いが、例えば生活の上にも現れてくるのですよ、ね、そういう意味で、朝の御祈念は本当に有り難いのであり、そういう功徳があるのだということ、そういう意味で、一つ、本気で清まらせて頂こうという、ね、まず自分の心の清まりから、ね、社会的な、うんなら現在の選挙のようなことでも、ね、こちらが清まらずしといてから、ね、政治家だけを責めるのは、こりゃぁ本当なことじゃないと、ね、息子が言う事聞かんと言うて、(?)があんまり、(ごじゅっぽあっぽ?)です、自分が言う事聞かせんで、聞かせきらんでおいてから、ね、息子の非だと、本当はそうですもんね、自分も行じられてない、自分が出けてない事を子供に求めておるのですから、そうでしょうが、ね、行儀が悪い、自分自身が行儀が悪いといてから、「はぁ行儀ば直しなさい」と言うて、直るはずがないです、ね、これは、まえおき、その、お~、政治の事においても、私は同じことが言えるのじゃないかとこう思うのです、ね、ほんと一つ、本気で清まらして頂くと、ね、その事が信心だと、いう風に分からしてもらわしてもらうとです、その清まった心に、不平も不足もなくなって、いや、心配も不安もなくなって、その不安のない心配のない、曇りのない真ん丸い心にです、神様の光が射してくる、その光が照り返らして頂いて、私共の上にも、このようなおかげが頂けれる、このように有り難い生活が出来るというおかげが頂けれると思うですね。 どうぞ。